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僕が風呂から上がりあてがわれた客室へと戻ると、風呂の順番を待っていたはずの芭蕉さんが仰向けに転がって寝入っていた。まだ女将が布団を敷きに来るには早い時間なので、もちろん畳の上に直接にだ。いくら疲れていたとしても、こんなものは子供の所業だ。僕はそれに歩み寄ると、ちょうどこちら側に傾いていた芭蕉さんの顔面を蹴った。とたん、鼻が詰まったような聞き苦しい声を漏らし、芭蕉さんが弾かれたように身を起こす。両手で鼻を押さえながらこちらを見る目はさっそく涙ぐんでいた。

「風呂が空きましたよ」

芭蕉さんが何か言う前に、僕は言った。寝起きのためか、芭蕉さんはとっさに僕に対する非難の言葉が出てこないようで、数秒の間何やら考えていた後立ち上がって部屋を出て行った。そっかあ、じゃあ行って来る、と呟かれた声は明らかに詰まっていて、もしかしたら鼻血が出たのかもしれないと思わせる。だとしたら、今風呂に行くのは危険だ。血が止まらなくなる可能性がある。
それはともかく、僕は部屋の窓を開けることにした。窓、と言っても紙張りのその窓を外から透かす光は何もなく、開けてみると外は案の定新月だった。その傍らに腰を下ろし、濡れた髪が風に吹かれる心地をしばらく楽しむ。
それからしばらくして、女将が部屋に布団を敷きに来た。女将が手際よくその作業を終え、部屋を去ってしまっても芭蕉さんはなかなか帰ってこない。あの人は長風呂な性質ではないので、これは本当に血が止まらなくなったのかもしれない……などと思っていたら不意にふすまが勢いよく開いた。

「曽良君のせいで鼻血が止まらないよ~~っ! どうしてくれんだこの暴力弟子!」

もう鼻を押さえ続けることをとっくに諦めたらしい芭蕉さんが、ぼたぼたと鼻から血を垂らしながら立っていた。その着物は衿ぐりから胸元まで血で汚れていて、風呂でそれなりに清められたはずの肌にまでそれは及んでいる。僕が思わず舌打ちを落とすと、芭蕉さんは心外だと言わんばかりにまた大声を上げた。

「何舌打ちなんかしてんの!? 元はと言えば曽良君の……」

芭蕉さんが言いかけた言葉を噤んだのは、僕が立ち上がって彼のそばに歩み寄ったのが原因だろう。
僕が間近に近づくころになってもまだ廊下に立ったままだった、それどころか後退りそうになった体を腕を引いて乱暴に部屋の中に引き入れる。引かれる腕に合わせて転びそうに傾いだ体を、うつぶせになってしまわないように胸元で支え、空いたほうの手でふすまを閉めた。僕の手のひらに触れた布地にも血が染みこんでいて、ぬるついた感触が気持ち悪い。

「人のせいにしないでください」

芭蕉さんの両肩を掴んで、わずかに上を向く姿勢を取らせる。
芭蕉さんが、自分の両肩を掴む手を見たそうに首を廻らせようとしたので、僕は「動くな」と声と目でそれを制した。とたんに、芭蕉さんはびくりとして動きを止める。怯えたように見える目線と止まらない鼻血が妙にこっけいで、僕は先ほど苛立った気持ちの比重が愉しみのほうに傾いていくことを自覚した。

「血が出ているのに風呂に入るなんて。どこか汚したりしなかったですか」
「し、してないよ……多分」

多分、のところはほとんど聞き取れないほどの小さな声だ。

「馬鹿が……」
「しっ師匠を馬鹿って言うな! だいたい元はと言えば君が」
「血が止まるまで動かないでください。板間ならまだともかく、畳や布団を汚したりしたら一泊分の代金じゃ済みませんよ。その分を芭蕉さんの食事代から回していいのなら僕は構いませんけど」
「それは嫌だ!」
「芭蕉さんの宿代からまわすのでも構いませんが……」
「師匠だけ野宿しろってこと!? それもやだやだ!」
「じゃあ血が止まるまでそのまま上を向いてじっとしていろ、馬鹿じじいが」

僕が言い捨てて両肩を離すと、もう体は自由になったのに芭蕉さんは射抜かれたように身じろぎもしなかった。最初からそうしていればいいのだ。
手を洗ってきます、と僕がその部屋を離れ、戻ってきても芭蕉さんの姿勢はそのままだった。ふすまを開けた僕のほうを目線だけでちらりと見て、居心地悪そうに眉根を寄せている。血はまだ止まっていないようだった。

「何も立ったままでいろとは言っていませんよ。じゃあ、おやすみなさい」

僕はその横をすり抜けると、床につくために部屋の明かりを消した。何しろ今日も長く歩いたから、早く休んでしまいたかった。
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